2008年8月 2日

土曜日の静寂

レースの合い間の静まり返った競輪場の特別観覧席に突如携帯電話の着信音が響き渡る。

電話を受ける人を気遣うという訳でも聞き耳を立てているという訳でもないだろうが
そんなシチュエーションになると決まって電話が鳴った一帯の客は一斉に静まり返り
微妙な空気があたりを支配することになるから不思議なものだ。

電話を受けた人は50代ぐらいとおぼしき男性。
競輪場にはひとりでやってきて、特別観覧席で静かに競輪を楽しんでいる様子だった。
近くでひたすら訳の分からない能書きばかりを垂れている競輪場にありがちな暑苦しいおじさん達の集団も
さすがにそちらを気遣ったのか、声のトーンを抑え目に話している。

「えっ?今?」
電話を受けた男性は恐らく電話の相手に「今どこにいるのか?」ということを聞かれたのだろう。

なぜか困ったような顔をして言葉に詰まる男性。
競輪客であればその男性が言葉に詰まった理由はよく理解しているはず。
男性が思わず言葉に詰まったその一瞬の静寂が、より一層周りの客の注目を浴びることにつながったことは言うまでもないだろう。

能書きおじさん達も口を開けたまま、男性の返答に聞き耳を立てる。
周りからの注目を集めて訪れる一瞬の静寂。

「あぁ…家だよ」
男性の言葉から発せられた言葉はまさかの言葉。
その陰には複雑な事情があるのだろうということは競輪客であれば誰でも理解できることだろう。

「ププッ」
片隅から我慢できずに失笑が漏れる頃、男性はなんとか言い訳をしつつ話をまとめて電話を切った。
その直後、場内放送で前のレースの着順の確定放送が流れ始める。
もしもその放送が流れる前に電話が切れていなかったとしたら電話の相手に今競輪場にいることは簡単にばれてしまったことだろう。

「参ったよ」
周りの人が注目していることに気付いた男性は、どこかほっとしたような顔をしながら後ろを振り返っていたずらっぽく笑う。

「あっはっは」
能書きを垂れていたおじさん達も私達も…そしてその周りの人達も…辺りは一斉に和やかな笑いに包まれ
その瞬間、顔も知らない、名も知らない人達の気持ちはひとつになった。