2009年1月28日

手島が死んだ

現代競輪において車券を絞る上で最も重要と言える選手紹介時の並び。

手島慶介という男は自在というややあいまいなコメントを出した時にも
選手紹介時には特定のラインの後ろに決め打ちして並んでみたり
流れからレース中にやる可能性のある動きを選手紹介で具体的に提示してみたりするなど
車券を買う側の人間としてはとてもありがたい数少ない選手のうちの一人だった。

かつての私は正直なところ「強いのは分かっているが確実性に乏しく手島の車券を買うのはまるで宝くじを買うようなもの」だと
すっかりムラ駆けの穴選手扱いしていたのだが
2003年の寛仁親王牌(G1)最終日の競走を見てその考えも徐々に変化して行くことになる。

この競走は負け戦ながら当時「先行日本一」の名を欲しいままにしていた村上義弘と
その村上を利して前年の親王牌を制覇した松本整がセットの番組。
人気は当然そこに集中し村上-松本の表裏は共にひとケタ倍の1・2番人気となっていた。

そこに敢えて顔見せからジカに松本に対して番手勝負を挑んで見せた手島慶介。
それを見た場内の客からは誰からともなく自然に拍手が沸き起こった。

実際のレースでは松本を気遣い後ろを競らせない仕掛けを心掛けた村上義弘だったが
手島は松本に執拗に絡んで行き共に押し合う流れの中から両者は絡み合うようにして落車。
落ちた直後の松本整のムッとした表情は今でも鮮烈に覚えているほどに印象的なもので
当時輪界のトップマーカーとして君臨していた松本にとってはよっぽど面白くなかったのだろうということが容易に想像できるような出来事だった。

全レースが終わって外に出るとたまたま選手駐車場にサングラスをかけた手島の姿があったが
「怪我大丈夫ですか?」というファンの問い掛けに対し軽く応対したあと
すぐに車に乗り込み爆音を轟かせながら猛スピードで去って行った手島。
その姿は良くも悪くもいかにも競輪選手らしいチンピラ兄ちゃんのような姿であったが
その場に居合わせたファンも「あそこで敢えて松本に絡んで行こうという心意気が気に入った」と絶賛する人も少なくなかったように
私もそのレースを境に手島という男を見る目は確実に変わって行った。

しかし直後の一宮オールスターでは悪名高き宿舎内での携帯不正所持事件が発覚。
携帯電話を持ち込んだのは八百長だ、女と連絡を取るためだなどと当時はいろいろな憶測が飛び交ったものだが
不正関与はないとされ1年間の斡旋停止処分という厳しい処分を代償に選手生命をなんとかつなげた手島慶介は
斡旋が止まっている間、実家のうどん屋を手伝う傍ら恐らく血の滲むような自分を追い込んだ練習を積んで
再びバンクで戦える日を待ったに違いない。

密かに注目を集めた復帰戦では同乗した同県の金子真也に迷惑をかけられないと控えめなコメントを出しつつも
実際のレースでは見事豪快な捲りで快勝して見せた手島の復帰後の競走は
それまでの競走に輪をかけて勝ちにこだわった「なんでもありのゲリラ戦」を展開。
時には上手く、時にはえげつなく臨機応変前々自在な走りでの快進撃はそこから始まって行った。

他のトップ選手が調整のために斡旋を休んでビッグレースに照準を合わせる中
「走れることに感謝したい」と一貫して斡旋は休まず走り続けた手島慶介。
競走に参加する傍らで高崎の一等地の土地を買い集めるなどの事業展開もあわせて行い
競輪選手として残り数年間を全力を尽くして戦ったあとは事業に専念したいというようなことも非公式に発言していたとされる手島にとって
残された競輪選手として輝ける時間は毎日がまさに死力を尽くして戦う日々だったに違いない。

常に自分がどうすれば勝ちに近づけるかを追求して行った結果、クラッシャーとして多くのアンチを生み出すのと同時に
競走に集中する中で研ぎ澄まされた感性は時として「こいつはもしかして天才なんじゃないか?」と思えてくるような
あり得ないようなスーパープレーの数々も生み、多くのファンを魅了して行った手島は
復帰後初のG1決勝進出となった2006年の寛仁親王牌決勝で海老根恵太の番手からレースを組み立てるも
その海老根が後方に置かれると躊躇なく海老根を捨て、前橋ドームの必勝法でもあるホームカマシ気味の発進で捲って行き
見事に後ろの後閑信一とともにワンツーを達成したほか
2007年の競輪祭決勝では2005年の地元前橋記念(三山王冠)で先行して引っ張ってもらったこともある
同期の伏見俊昭のところに競り込んで早めに伏見をどかすと
そこに追い上げて来た東北の3番手・有坂直樹と押し合って双方落車。
後続の車も巻き込んでレースを壊したと一部から散々批判を浴びたこともあった。

また同年の高知オールスターを強気な番手勝負で制して晴れてG1ウイナーの仲間入りを果たした飯嶋則之が
強気に位置を主張して来たのに対してはすんなりと番手を譲る傍らで
その飯嶋の主張を「位置に納得できないなら競ってでも納得する位置を取ればいい」と支持する神山雄一郎に対しては
一応ラインを組みつつも2007年末に行われた広島記念決勝では
ブロックに行った番手の神山のインを3番手の手島が突いて神山をどかしにかかるなどビックリするようなプレーがあったのを始め
ついに事態は手島と神山のジカ競りにまで発展したし
2008年のふるさとダービー弥彦決勝では先行した平原を必死に援護した番手の諸橋愛が
勢い余って平原の横近くにまで行って戻れなくなってしまったのを尻目に
平原が走路を空けたところを3番手の手島がインを突いて優勝。
ルールを理解し切れていない一部のファンから「あれは失格ではないのか?」という批判が相次ぐほどの
勝負に徹した際どいプレーも手島の真骨頂と言えるものだった。

外道と言われようが何と言われようがここで行かなきゃ勝負権はないというところで
必ず勝負に行くその姿勢はすばらしいものでまさに競輪選手の鑑と言える存在だった手島慶介。
これほど良くも悪くも記憶に残るレースを挙げたらキリがない選手も珍しいことだろう。

話題になった兵藤一也に対して「二度と後ろに付けさせない」と激怒したという一件も
いつでも全身全霊をかけて勝負を続けているつもりの手島にとって
自分を早々に見限って切り替えた兵藤の行為がどうしても許せなかったということの表れだったはず。

その騒動も手島が兵藤に侘びを入れて和解。
自分が勝つだけでなく群馬の選手や他県の選手までをも引っ張って行こうという姿勢で
若手選手の面倒もよく見ていたという手島だったが、今回の悲劇の結末を迎えてしまうことになってしまった。

公式発表が場所・死因は共に不明というものだったためいろいろな憶測が流れてはいるが
一介の競輪ファンとしては今回の死が何らかのトラブル絡みのものではないことを祈るのみ。
携帯不正所持事件による謹慎後はとにかく全身全霊をかけて全力でレースを駆け抜けた感のある手島慶介は
そのまま人生をも駆け抜けて残念ながら短い生涯を終えることとなってしまった。

稀に競輪選手に話し掛ける機会がある時には
例え相手が年下であろうとも敬愛の念を込めて必ず○○さんと呼ぶようにしている私にとっても
手島が死んだ途端に「手島さん」という表記に変わった新聞の紙面にはどうも違和感を感じる。

いままで手島・手島と呼んでいたものを急に手島さんなんて呼べるもんか!

今でも競輪場に行けば普通に出走表に手島慶介の名前があって
レースになれば敢闘門から出て来てなんでもありの自在戦を展開してくれるような気がしてならないが
残念ながら手島が死んだという確かな事実だけは覆しようがない。

前橋競輪場では次の開催時に場内で献花や記帳の受付、遺品の展示などをしてくれるそうだが
地元ファンとしてはその肉体が煙になってしまう前にどうしても感謝の気持ちを伝えたくて
従来、弔電というものは遺族に向けて打つのが常識だと分かっていながらも感謝の気持ちを匿名の電報に託して届けてもらった。

「あなたの熱いレースは一生忘れません。ご冥福をお祈りいたします。」

今日前橋競輪場でぼんやりとバンクを眺めていたら
バックストレッチを必死の形相で手島が捲っている姿が目に浮かんできたような気がした。
全くもって困ったもんだ。